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歴史の言説の中の脱落箇所


2017年1月15日
遠藤哲也


年が変わって二〇一七年となり、日華事変の開始から八〇周年となる年を迎えました。この年月を経ても巷で語られる戦争のストーリーの中で、最も要所というべき事柄がぽっかりと脱落して述べられていることが時折あるようです。

例えば、第二次上海事変は最たるものでしょう。一九三〇年代の対華関係の資料や年表などで、この出来事が見事に無視されていることは少なくありません。一九三七年七月七日に発生した盧溝橋事件で、日本軍と小競り合いを行った相手は、蒋介石と対立して度々、交戦し、中原大戦でついに敗れて引退した軍閥・馮玉祥配下で、かつて「五虎将」の一人と言われ、塘沽協定で定められた非武装地帯内に出来た半自治政権である冀察政務委員会の長であった、宋哲元の軍隊(言わば、蒋政権に半従している地方軍閥軍)との間のものであり、発生の四日後には現地で停戦協定が成立しました。これ以降、色々の目論見を持った人々が拡大あるいは不拡大のための様々の動きを続けていましたが、盧溝橋事件から一ヵ月以上を経た第二次上海事変で初めて、上海国際共同租界の日本人地区を包囲した蒋介石直率の国民革命軍中央軍と日本海軍陸戦隊とが本格戦闘に入りました。この直後に国民党政府は全国総動員令を発し、戦争指揮のための大本営を設立したのですから、外形的に見てもこの時が日本と中華民国の戦争の始まりと考えるべきであり、この出来事を無視して、日中間の戦争を語るなど有り得ないはずなのですが。

もう一つの例として一九一八年からのドイツ革命が挙げられます。NSDAP(ナチス党)政権の登場について一般的に知られるストーリーとは、第一次大戦敗戦後、フランスらによる過酷な対独制裁や世界恐慌などによる経済悪化に苦しんだドイツ人の間に極右ナショナリズムが広がり、そこから勃興したナチスが政権獲得、といったものでしょうが、それは事実の一部であるとともに、「ナショナリズム=全体主義」という価値観を導いているストーリーであるとも言えます。

第一次大戦終戦の前年にロシア革命が起きて世界初の共産主義国家ソ連が誕生しました。当然、欧州の共産主義者達は勢いづきました。一九世紀の戦争のように数カ月で終わると思われていた一次戦は大量死を引き起こしながら四年が経ち、ドイツ国内も物資不足に喘いでいたことは労働者や下級軍人を急進左派に誘う環境となったでしょう。出撃拒否した海兵が起こしたキール暴動をきっかけとして蜂起は拡大し、北ドイツ各都市に急進左派のソビエト(レーテ)政府が樹立されました。この状況の中でドイツ皇帝は退位を強いられ、ドイツは敗戦しますが、以後も、急進左派の暴動は継続しました。中道左派政権のワイマール政府の依頼により、この革命運動を鎮定したのが、戦場からの帰還軍人達による義勇兵団(フライコーア)でした。しかし、同政府がヴェルサイユ条約において、連合国側によるドイツ国軍の大幅縮小要求を受け入れたことは、復員軍人達の不満や憤りを高め、更にフライコーアが非合法化されたことで、その中の少なからぬ者は反政府性を持つ急進右派的な政治運動団体に参加していきました。その中から現れた政党の一つがNSDAPです。ドイツでは、少なくとも1923年まで、コミンテルンの支援による共産主義革命を目指す暴動が発生しており、急進右派勢力は、上記のような左派暴動による国内の無秩序化無くして登場し得なかったはずですが、そのことが語られることはあまり多く無いようです。

*当・海外事情研究所では、毎月、月刊『海外事情』誌を発行しています。世界情勢を知るための各種の論稿が掲載されていますので、是非、そちらの掲載論文、コラム、後記にも目をお通し下さい。