政治家の服装チェック
2019年8月
丹羽文生
今年で15年目を迎えたクールビズも、今や完全に定着したと言えるでしょう。学内でもノーネクタイで出勤する男性教職員の姿が目立ちます。
永田町では沖縄版アロハシャツとも言える「かりゆしウェア」が人気で、首相以下、全大臣が、かりゆしウェアを着て閣議に臨む毎年6月上旬の「かりゆし閣議」も夏の風物詩となりました。内閣府沖縄担当部局が主体となって、その普及に取り組み、毎年、クールビズ期間に合わせて、全ての中央省庁に「かりゆしウェア」の共同購入を勧めた結果、霞が関でも、かりゆしウェアがメジャーとなりました。
服装に煩い国会も、クールビズが登場して以降は毎年、議院運営委員会理事会において、「上着、ネクタイを着用しないことを可とする。その際、長袖又は半袖の襟付きシャツを着用する。(なお、ポロシャツ、Tシャツ、半ズボン等は不可)」といった内容の申し合わせが行われています。ただし、本会議場だけは、かりゆしウェア以外は「上着(半袖上着を含む)を着用する」ことが義務となっています。それでも昔から比べれば、随分と服装のルールは緩くなりました。
1991年11月、社会党の衆議院議員で、いわゆる「マドンナ議員」の1人だった長谷百合子は、トレードマークにしているベレー帽を被ったまま本会議場入り。世間を巻き込む大騒動になりました。衆議院規則第213条には「議場に入る者は、帽子、外とう、えり巻、かさ、つえの類を着用又は携帯してはならない。但し、病気その他の理由によって議長の許可を得たときは、この限りでない」とあり、参議院規則第209条にも似たようなルールがあったからです。
この時、彼女は1986年5月の来日時に国会を訪れたイギリスのダイアナ妃が帽子を着用したまま本会議場に入ったことを引き合いに反発し、ベレー帽の着用を認めるよう訴えました。しかし、ダイアナ妃は外国からの賓客であり、衆議院規則は適用されないとして、結局、議院運営委員会理事会は長谷の主張を退け、しぶしぶベレー帽を脱ぐこととなったのでした。
放送作家、ラジオパーソナリティ、俳優と、マルチタレントから参議院議員に転身した野末陳平は、初当選間もない頃、タートルネックのセーターにジャケットを羽織って本会議場へ。ところが、待ち受けていたのは激しい野次の嵐でした。これには、さすがの野末も委縮してします。
後日、野末の元にイヴ・サンローランの高級ネクタイが届きました。当時、参議院議長だった河野謙三からのプレゼントでした。河野の粋な計らいに感激した野末は、以来、常識的な服装に変えたのでした。
では、いつ頃から国会ではスーツ、ワイシャツ、ネクタイ着用が一般化していったのでしょうか。筆者が調べたところ、1923年12月に開かれた帝国議会にまで遡るようです。それ以前はフロックコートかモーニングコート、羽織袴といった礼服が当たり前でした。ところが、この年の9月1日、関東大震災が発生し、東京一帯は焼け野原に。議員たちの多くが礼服を焼失してしまいました。そこで、これ代わる正装として、スーツ、ワイシャツ、ネクタイ着用を取り入れたというわけです。戦時中、あるいは戦後間もなくの頃は、もんぺ、ジャンパーを着た作業着姿の議員もいました。
滑稽なのは、災害が起こった際に見受けられる防災服に身を包んだ議員たちの姿です。こちらは一種のパフォーマンスでしょう。防災服を着て現場に赴くならまだしも、筆者にはテレビ映りのために、このような格好をしているとしか思えません。もちろん、政治家は公人ですから、身嗜みに気を使うのは当然ですが、まずは服装よりも中身で勝負してもらいたいものです。
丹羽文生
今年で15年目を迎えたクールビズも、今や完全に定着したと言えるでしょう。学内でもノーネクタイで出勤する男性教職員の姿が目立ちます。
永田町では沖縄版アロハシャツとも言える「かりゆしウェア」が人気で、首相以下、全大臣が、かりゆしウェアを着て閣議に臨む毎年6月上旬の「かりゆし閣議」も夏の風物詩となりました。内閣府沖縄担当部局が主体となって、その普及に取り組み、毎年、クールビズ期間に合わせて、全ての中央省庁に「かりゆしウェア」の共同購入を勧めた結果、霞が関でも、かりゆしウェアがメジャーとなりました。
服装に煩い国会も、クールビズが登場して以降は毎年、議院運営委員会理事会において、「上着、ネクタイを着用しないことを可とする。その際、長袖又は半袖の襟付きシャツを着用する。(なお、ポロシャツ、Tシャツ、半ズボン等は不可)」といった内容の申し合わせが行われています。ただし、本会議場だけは、かりゆしウェア以外は「上着(半袖上着を含む)を着用する」ことが義務となっています。それでも昔から比べれば、随分と服装のルールは緩くなりました。
1991年11月、社会党の衆議院議員で、いわゆる「マドンナ議員」の1人だった長谷百合子は、トレードマークにしているベレー帽を被ったまま本会議場入り。世間を巻き込む大騒動になりました。衆議院規則第213条には「議場に入る者は、帽子、外とう、えり巻、かさ、つえの類を着用又は携帯してはならない。但し、病気その他の理由によって議長の許可を得たときは、この限りでない」とあり、参議院規則第209条にも似たようなルールがあったからです。
この時、彼女は1986年5月の来日時に国会を訪れたイギリスのダイアナ妃が帽子を着用したまま本会議場に入ったことを引き合いに反発し、ベレー帽の着用を認めるよう訴えました。しかし、ダイアナ妃は外国からの賓客であり、衆議院規則は適用されないとして、結局、議院運営委員会理事会は長谷の主張を退け、しぶしぶベレー帽を脱ぐこととなったのでした。
放送作家、ラジオパーソナリティ、俳優と、マルチタレントから参議院議員に転身した野末陳平は、初当選間もない頃、タートルネックのセーターにジャケットを羽織って本会議場へ。ところが、待ち受けていたのは激しい野次の嵐でした。これには、さすがの野末も委縮してします。
後日、野末の元にイヴ・サンローランの高級ネクタイが届きました。当時、参議院議長だった河野謙三からのプレゼントでした。河野の粋な計らいに感激した野末は、以来、常識的な服装に変えたのでした。
では、いつ頃から国会ではスーツ、ワイシャツ、ネクタイ着用が一般化していったのでしょうか。筆者が調べたところ、1923年12月に開かれた帝国議会にまで遡るようです。それ以前はフロックコートかモーニングコート、羽織袴といった礼服が当たり前でした。ところが、この年の9月1日、関東大震災が発生し、東京一帯は焼け野原に。議員たちの多くが礼服を焼失してしまいました。そこで、これ代わる正装として、スーツ、ワイシャツ、ネクタイ着用を取り入れたというわけです。戦時中、あるいは戦後間もなくの頃は、もんぺ、ジャンパーを着た作業着姿の議員もいました。
滑稽なのは、災害が起こった際に見受けられる防災服に身を包んだ議員たちの姿です。こちらは一種のパフォーマンスでしょう。防災服を着て現場に赴くならまだしも、筆者にはテレビ映りのために、このような格好をしているとしか思えません。もちろん、政治家は公人ですから、身嗜みに気を使うのは当然ですが、まずは服装よりも中身で勝負してもらいたいものです。