軍事の可逆性
2024年7月
遠藤 哲也
遠藤 哲也
1971年発表の小説『戦国自衛隊』は、燃料・弾薬等の臨時補給所に居た三十名ほどの自衛官達が、補給所ごと戦国時代にタイムスリップしてしまい、現代兵器の圧倒的な力をもって戦国時代の軍隊を打ち破りつつも、大きな歴史の流れに巻き込まれていくというストーリーを描いて、今日まで出版され、30年を経てスピンオフ作品も生み出されている人気作品です。昨今のライトノベルでの流行となっている、主人公が反則と言えるほど圧倒的な力を持って異世界に転生する設定の「異世界チート作品」の走りとも言えるでしょう。
但し、近年のそうした作品と作家・半村良が描いた七○年代の原作版『戦国自衛隊』の大きな違いは、タイムスリップした部隊の圧倒的戦力を支えるのは、補給所に積まれた限りある燃料・弾薬であり、これが残っているうちに現代に帰る方法を見つけるか、戦国時代で生きていく拠り所を見出さねばならないという緊迫感が一貫して伴っている事でした。自分でメンテ可能な中世の武器類とは異なり、現代兵器は補給や、専用パーツによるメンテナンスがなければただの金属の塊・棒になってしまいます。そうなった時に近代兵器を刀槍に持ち替えた時の自衛官らの戦闘力は、戦国時代を生き抜いている侍たちに及ばないであろう事も作中で語られています。一定条件では現代軍が中世軍に凌駕される事もあり得るという訳ですが、ここでお話しするのは、私が「軍事の可逆性」と呼んでいる事柄についてです。
第二次大戦の戦場では重く嵩張るばかりで武器としては無用であった(指揮刀としては有意だったとの論はあります)日本陸軍将校が持った軍刀(日本刀)は、誰も武器など身に帯びる事が無い令和の市民社会の街角においては、暴漢がそれを携えているというだけで大きな脅威になり得ます。しかし、『戦国自衛隊』の中では簡単に近代兵器で倒されてしまっていた戦国時代の侍がもしその場に現れるならば、甲冑で身を鎧った武士の幼少期から鍛え上げた武芸の力は、日本刀を振り回す路上の暴漢の攻撃を難なく受け止め、切り捨てるか組み伏せる事でしょう。
兵器は時代と共に更新され、旧式化したものが新式の物に太刀打ちできなくなると、それらは消えていきます。戦間期までは海上の主戦力と見なされていた巨砲・重装甲を持つ巨大戦艦は、第二次大戦時の日米英戦では陸へ向けた艦砲射撃の為の海上砲台として以上の意味をほぼ持ちませんでした。今日の世界には現役の戦艦は存在しません。第二次大戦でその戦艦の地位を奪った急降下爆撃機や航空魚雷を積んだ雷撃機は、冷戦中には対地・対艦ミサイルをより遠距離から射出するジェット攻撃機に地位を譲って消えていく事になりました。
但し、それらが消えたのは、それらの兵器自体が持つ力が失われたからではありません。戦国の自衛隊や暴漢に対する鎧武者の例のように、条件が変わればその力はまた頭をもたげて来ます。第一次世界大戦の特徴は塹壕戦でしたが、狭くて小銃がとり回せない塹壕内での戦いでは、兵士達はナイフやスコップに加えて、何百年も前の中世に使われていた武器と同じ物——短いこん棒の先に金属の固まりやとげ、鎖付きの分銅などを付けて殺傷力を強化した武器(メイスとかフレイルの類)——を造り出して使うようになりました。
換言すれば、人間の肉体の強度や能力という基礎条件が変わらない以上、それを害しようとする武器/兵器自体の意味が消滅する事はありません。単にそれより進んだ、いわば、上位互換の武器(例えば第二世代戦闘機に対する第三世代戦闘機)や、革新的武器(例えば弓箭・刀槍などの人力兵器に対する火器)が現れる事で、その力が覆い隠されるだけだと言うべきでしょう。ですからある時間、ある場所において、何らかの理由で上位の武器が存在しないとか使えないという条件が生じれば、覆い隠されていた力が、自衛隊の火器>甲冑武者>暴漢の刀、といったように概ね歴史的登場の逆順の優位を持って再興してくる事があり得ます。こういう力学関係を私は「軍事の可逆性」と呼んでいる訳です。
ですから最先端の技術を用いた兵器も、補給やメンテナンスが得られなければ無力なものになります。現代の先端兵器は高額化している上、高度に電子化されている為、機械構造であった第二次大戦中の兵器のように、前線の飛行場で、壊れた二機の戦闘機を組み合せて一機を作るなどという事はまずできないでしょう。弾薬備蓄だけ見ても長期戦に十分だと言える先進国は多くはないと思われます。途上国の地域紛争が何年にもわたって続けられるのは、その軍隊が先端兵器や複雑なメカを持つ重兵器を最初からあまり用いていないからだとも言えるでしょう。先進国のように兵器開発の最先端へのキャッチアップを念頭に置く軍備を持つ国ほど、戦争が長引けば整備や補給が滞る可能性は高く、精密機械である現代兵器やミサイル、それを支える電子システムなどは、長期戦になるほど時間経過と共に次第にメンテが追い付かない、供給が追い付かないなどで機能を停止したり、前線に届かなくなる事が予想されます。そんな時には、とうに時代遅れとなったと思われていた前時代の兵器でも、再び意味を持ってくる事になるかもしれません。
一九九〇年代のユーゴスラヴィアが内戦化した時には、第二次大戦期の兵器であるT34戦車が(60年代まで生産はあったようですが)、ユーゴ軍の倉庫から引っ張り出されて使われました。ロシア・ウクライナ戦争で、開戦前の所有数と同数程度の戦車を失ったと報じられているロシア軍では、第二次大戦直後世代の戦車であるT54/55のウクライナ方面への送出が確認されたとされ、T34の投入の噂まであります。ロシアが以前から新世代兵器の登場で引退する事になった旧兵器をモスボール(劣化を防ぐための保管法)化によって多く保存してきた事は知られていた事ですから、現用世代の戦車や対戦車兵器が、破壊や撃ち尽くしなどによって戦場での密度が下がれば、より旧式な兵器が持ち出されてくるのは不思議ではないでしょう。
「軍事の可逆性」は兵器/武器だけでなく戦術面でも起こり得ます。『MAMOR』誌で、銃と手榴弾のみを装備の自衛隊一個普通科連隊は、武者千人が守る熊本城を落とせるかという仮想記事では、不可能という結論になっていましたが、確かに幾重にも存在する城門を有効に破壊する兵器が無ければ、城兵と同数程度の規模の部隊では近世城郭の攻略は難しそうです。二〇二〇年に、アフリカのマリの砂漠地帯に展開するフランス軍が、十六~十八世紀頃の星形要塞そっくりの陣地内に駐屯している様子が報じられていますが、これも敵側が迫撃砲などの軽砲さえ持っていないという条件では、近代以前の防御陣地も有効だという事になる例なのでしょう。
さて、現代日本においては、自衛隊の持つ装備類の多くは物品管理法上、新型に更新され用途廃止となると一部を除き売却・廃棄処分となるのが常と言われます。世界全体で見れば現用水準だとも言えるであろう74式戦車なども例外ではありません。「軍事の可逆性」という力学から考えると、それは惜しい事に思われます。勿論、保管コストや弾薬調達等との関係は考慮せねばなりませんが、長期交戦によるメンテと補給の不足などから軽装備化した彼我の歩兵には、第二次大戦期の戦車や戦闘爆撃機だろうと近世城郭だろうと十分脅威になり得る局面があり得ます。現在のウクライナは大陸国家故に地続きに外国から支援を受けて継戦していますが、有事の島国への支援にはより困難が伴うであろうという事は、単純な費用対効果で語れない要素も齎します。日本では一部隊として運用できる位の数量での引退兵器のモスボール保管をもう少し考慮してもよいのかもしれません。
但し、近年のそうした作品と作家・半村良が描いた七○年代の原作版『戦国自衛隊』の大きな違いは、タイムスリップした部隊の圧倒的戦力を支えるのは、補給所に積まれた限りある燃料・弾薬であり、これが残っているうちに現代に帰る方法を見つけるか、戦国時代で生きていく拠り所を見出さねばならないという緊迫感が一貫して伴っている事でした。自分でメンテ可能な中世の武器類とは異なり、現代兵器は補給や、専用パーツによるメンテナンスがなければただの金属の塊・棒になってしまいます。そうなった時に近代兵器を刀槍に持ち替えた時の自衛官らの戦闘力は、戦国時代を生き抜いている侍たちに及ばないであろう事も作中で語られています。一定条件では現代軍が中世軍に凌駕される事もあり得るという訳ですが、ここでお話しするのは、私が「軍事の可逆性」と呼んでいる事柄についてです。
第二次大戦の戦場では重く嵩張るばかりで武器としては無用であった(指揮刀としては有意だったとの論はあります)日本陸軍将校が持った軍刀(日本刀)は、誰も武器など身に帯びる事が無い令和の市民社会の街角においては、暴漢がそれを携えているというだけで大きな脅威になり得ます。しかし、『戦国自衛隊』の中では簡単に近代兵器で倒されてしまっていた戦国時代の侍がもしその場に現れるならば、甲冑で身を鎧った武士の幼少期から鍛え上げた武芸の力は、日本刀を振り回す路上の暴漢の攻撃を難なく受け止め、切り捨てるか組み伏せる事でしょう。
兵器は時代と共に更新され、旧式化したものが新式の物に太刀打ちできなくなると、それらは消えていきます。戦間期までは海上の主戦力と見なされていた巨砲・重装甲を持つ巨大戦艦は、第二次大戦時の日米英戦では陸へ向けた艦砲射撃の為の海上砲台として以上の意味をほぼ持ちませんでした。今日の世界には現役の戦艦は存在しません。第二次大戦でその戦艦の地位を奪った急降下爆撃機や航空魚雷を積んだ雷撃機は、冷戦中には対地・対艦ミサイルをより遠距離から射出するジェット攻撃機に地位を譲って消えていく事になりました。
但し、それらが消えたのは、それらの兵器自体が持つ力が失われたからではありません。戦国の自衛隊や暴漢に対する鎧武者の例のように、条件が変わればその力はまた頭をもたげて来ます。第一次世界大戦の特徴は塹壕戦でしたが、狭くて小銃がとり回せない塹壕内での戦いでは、兵士達はナイフやスコップに加えて、何百年も前の中世に使われていた武器と同じ物——短いこん棒の先に金属の固まりやとげ、鎖付きの分銅などを付けて殺傷力を強化した武器(メイスとかフレイルの類)——を造り出して使うようになりました。
換言すれば、人間の肉体の強度や能力という基礎条件が変わらない以上、それを害しようとする武器/兵器自体の意味が消滅する事はありません。単にそれより進んだ、いわば、上位互換の武器(例えば第二世代戦闘機に対する第三世代戦闘機)や、革新的武器(例えば弓箭・刀槍などの人力兵器に対する火器)が現れる事で、その力が覆い隠されるだけだと言うべきでしょう。ですからある時間、ある場所において、何らかの理由で上位の武器が存在しないとか使えないという条件が生じれば、覆い隠されていた力が、自衛隊の火器>甲冑武者>暴漢の刀、といったように概ね歴史的登場の逆順の優位を持って再興してくる事があり得ます。こういう力学関係を私は「軍事の可逆性」と呼んでいる訳です。
ですから最先端の技術を用いた兵器も、補給やメンテナンスが得られなければ無力なものになります。現代の先端兵器は高額化している上、高度に電子化されている為、機械構造であった第二次大戦中の兵器のように、前線の飛行場で、壊れた二機の戦闘機を組み合せて一機を作るなどという事はまずできないでしょう。弾薬備蓄だけ見ても長期戦に十分だと言える先進国は多くはないと思われます。途上国の地域紛争が何年にもわたって続けられるのは、その軍隊が先端兵器や複雑なメカを持つ重兵器を最初からあまり用いていないからだとも言えるでしょう。先進国のように兵器開発の最先端へのキャッチアップを念頭に置く軍備を持つ国ほど、戦争が長引けば整備や補給が滞る可能性は高く、精密機械である現代兵器やミサイル、それを支える電子システムなどは、長期戦になるほど時間経過と共に次第にメンテが追い付かない、供給が追い付かないなどで機能を停止したり、前線に届かなくなる事が予想されます。そんな時には、とうに時代遅れとなったと思われていた前時代の兵器でも、再び意味を持ってくる事になるかもしれません。
一九九〇年代のユーゴスラヴィアが内戦化した時には、第二次大戦期の兵器であるT34戦車が(60年代まで生産はあったようですが)、ユーゴ軍の倉庫から引っ張り出されて使われました。ロシア・ウクライナ戦争で、開戦前の所有数と同数程度の戦車を失ったと報じられているロシア軍では、第二次大戦直後世代の戦車であるT54/55のウクライナ方面への送出が確認されたとされ、T34の投入の噂まであります。ロシアが以前から新世代兵器の登場で引退する事になった旧兵器をモスボール(劣化を防ぐための保管法)化によって多く保存してきた事は知られていた事ですから、現用世代の戦車や対戦車兵器が、破壊や撃ち尽くしなどによって戦場での密度が下がれば、より旧式な兵器が持ち出されてくるのは不思議ではないでしょう。
「軍事の可逆性」は兵器/武器だけでなく戦術面でも起こり得ます。『MAMOR』誌で、銃と手榴弾のみを装備の自衛隊一個普通科連隊は、武者千人が守る熊本城を落とせるかという仮想記事では、不可能という結論になっていましたが、確かに幾重にも存在する城門を有効に破壊する兵器が無ければ、城兵と同数程度の規模の部隊では近世城郭の攻略は難しそうです。二〇二〇年に、アフリカのマリの砂漠地帯に展開するフランス軍が、十六~十八世紀頃の星形要塞そっくりの陣地内に駐屯している様子が報じられていますが、これも敵側が迫撃砲などの軽砲さえ持っていないという条件では、近代以前の防御陣地も有効だという事になる例なのでしょう。
さて、現代日本においては、自衛隊の持つ装備類の多くは物品管理法上、新型に更新され用途廃止となると一部を除き売却・廃棄処分となるのが常と言われます。世界全体で見れば現用水準だとも言えるであろう74式戦車なども例外ではありません。「軍事の可逆性」という力学から考えると、それは惜しい事に思われます。勿論、保管コストや弾薬調達等との関係は考慮せねばなりませんが、長期交戦によるメンテと補給の不足などから軽装備化した彼我の歩兵には、第二次大戦期の戦車や戦闘爆撃機だろうと近世城郭だろうと十分脅威になり得る局面があり得ます。現在のウクライナは大陸国家故に地続きに外国から支援を受けて継戦していますが、有事の島国への支援にはより困難が伴うであろうという事は、単純な費用対効果で語れない要素も齎します。日本では一部隊として運用できる位の数量での引退兵器のモスボール保管をもう少し考慮してもよいのかもしれません。